連載コラム

柴田範子 氏

1人ひとりに自分らしく生きてきた時代がある

私が生まれたのは昭和24年の正月、秋田の水のきれいな、コメのおいしい八郎潟の麓である。

当時、父は家業の養鶏の仕事に疲れると、家の裏にある小舟をこいで呑気な父さん魚釣りを楽しんでいた。
母が「いないと思って裏を見ると船がない。
釣りをすると時間を忘れていた」と父の若いころの事を思い出しながら語った。
父が亡くなる頃の事であるから、随分時間が経ったなーと思う。

父は8歳のころ脊髄カリエスに罹り、歩行もままならぬ子供時代であった。
父が少しでも歩けるようにと、私の祖母は、父を背負って長い時間を掛け北海道や東京の大学病院に通ったり、東北の湯治場にも長く滞在したと言う。

そんな父が大家族の主になり一家を仕切る。

地域では養鶏の先生と言われていた。
そして、不自由な足の代わりにと、郷里ではいち早くスクーターの免許を取得。
補装具や福祉用具が身近にある時代ではなかったため、2本の杖が身近な移動のための道具であった。

父は子供である私や弟には随分厳しかったが、養鶏について相談に見える方々には自分の持つ知識は惜しみなく伝える温かさがあった。
晩年の4,5年は介護が必要であったが、自分らしく生きた人である。
私は重い障がいを持つ父が、自分らしい生き方を貫き続けた後ろ姿を見て育ったように思う。

誰もが年齢を重ね、できていた事ができづらくなり、誰かの何かしらの助けを借りなければならない時が来る。
そのような時、私は身の丈にあった自分らしい生き方、暮らしをしたいと思う。

長年コツコツと積み上げてきた自分は1人しかいない。
プラス面もマイナス面も備えた自分は1人しかいない。
1人で食べづらくなったからと餌を与えられるような食事の場面や、トイレまでの移動に時間がかかるからとオムツやポータプルトイレを使う事が当たり前になるような日常生活は望まない。

12年前、介護の現状を目の当たりにして、私はNPO法人を作り介護にかかわる仕事の場をもとうと決心した。

介護サービスを提供するに当たり、その人にとっての当たり前の暮らしが叶えられるように、ケアの質にはこだわりたい、こだわり続けたいと思ったのである。